処世

今日は、京都で開催中の展覧会を巡ってきました。
なんだかんだで毎年行ってる京芸学内展、博士展→
アンテナのひでじ展→桂スタジオ→うんとこスタジオ→まめハウス(一瞬で去ってしまってごめん)→
京都市美術館の京芸制作展→エンアーツのロブ展→芸術センターの森川くんと寺島さん展。
ロブに「タフだね!」って言われました。このスケジュールね。
ハードやけど、途中で、桂の有名洋菓子店、バンボシュールによって、
シンデレラプリンとシブーストを買い、アトリエでいただいたり。
うふふなお楽しみも挟みつつ、ハードスケジュールを乗り切りました。
あーがんばった!


で思った。
以前は苦手だったけど、最近は人の作品を観るのがとても楽しい。
展覧会を鑑賞する経験が年齢的にも必然的に重なって来たと思われたり、高校美術を教えるようになったりしたこともあり。
たくさん観ることでかえって、自分の立ち位置が明確になるのがおもしろい。
美大に入って以来の美術歴が10年、学生のときよりも今が一番美術にハマってる気がします。


美術を観るときに自分が期待するのは、どこからどう見てもかっこいいような優れた作品ではなく、
愛すべき人間なのではないかな、と思う。
周りを見てても、概ね鑑賞者の期待するところは、そんな方向な気がする。
作品を見て、この人おばかだなーとか、かわいいなー人として、みたいな感想が漏れるときが、一番楽しい。
作品を一番楽しんでる瞬間かも。
でもその作家自身の自分語りがおもしろい訳ではなく、その人の表現を通して、同時代の人のあり様を感じられることが面白いのだと思う。
自分語りが許されるのは、ごく限られたカリスマしかないと思う。
カリスマで無い人の自分語りは、聞かされる方がやや迷惑。
いうても本物のカリスマは、自分語りを通して巧みに同時代を語っているのだと思うけど。


狭い世界だと言われますが、限られた地域ですら、
これだけ何百人の作品を一度に観れてしまうくらい作家志望者がいる状況を体感してしまうと、
いかに自分は突き抜けられるかということを、考えないわけにはいかない。


それにたかが一作家の自分がこんなことを考えているようでは、もっと多くの作家を見てきている人たちからは、
想像以上に自分の作品は見透かされているに違いない。


うーむ